ことあるごとに、ある二人の子どもを思い出します。
自殺した友人。不登校だった自分。
新学期、GW明け、夏休みの終わり、年末、受験シーズン・・・何年経っても思い出してしまいます。何か一つでも違えば、違う今があったかもしれない。ただ、なるべくしてなったことだと理解しています。それは年を経て、様々な考え方や判断基準を知り、自分で自分の状況を俯瞰できるようになったからです。
同時に、現在進行形で過去の自分たちと似た境遇にある人のことを想像します。ただ生きることに不安がある。本来子どもが考えなくていいことに悩まされている。誰に命を狙われることもないこの国で、死ぬ心配をしている。
悩みを抱えたまま、学校に行けないまま大人になる人もいるでしょう。卒業すれば消えるものでもない。同じことを繰り返し、苦境に立たされる。子ども時代を全うできたか、そうでないか。毎年ふるいにかけられる。こぼれ落ちていく。そんなイメージが拭えません。
自分と同じ思いを誰にもしてほしくない。同じ轍を踏んでほしくない。あの頃たった一言もらえていたら、何かが変わっていたかもしれない。同じように今、一つだけ変えることができれば、今後が開けていく人がたくさんいるはずです。私は過去、自分が言ってもらいたかった言葉を子どもたちに言える大人になりたいです。
ただただ誰かを支えたいという、無私の心だけで講座に参加したわけではありませんでした。自分がこうなりたいという利己的な気持ちもあるかもしれない。過去を変えられないことへの代償行為なのかもしれない。
それでも、俯いたまま通り過ぎていく人がいるなら一声かけてみたいです。
そう思って志願するものです。
受け手養成講座、修了お疲れ様でした。
レポートも読ませていただきました。
想いを抱えて受講してくださったことよくわかりました。
(団体名)は継続して特定の子どもと関わることができません。
一期一会でもあり、初対面の子どもに対して、こちらからの積極的な励ましやアドバイス、自分がしたい応援はしないことがルールでもあります。
信じて寄り添うことを目指します。
これは、ときに寄り添う側にとって辛いものになります。
非力さや無力さなどを感じることもあります。
これが結構しんどかったりもします。
一方で受け手として活動すると子どもと向き合うことで自分が癒されるという体験もします。
助けているようで、助けられ癒されているのは受け手である僕たちだったりします。
僕は○○さんとも、子どもと向き合うことで自分が癒され、そしてそれを子どもたちに還元していくことを共有できたらいいなと考えています。
受け手認定させていただきます。
一緒に活動してくれたら嬉しいです。
没案
“分からないこと”が何よりも怖い。
電話相談窓口のことは知っていました。
ただ、不登校だった頃の自分は誰がそんなところに相談するんだと思っていました。赤の他人になにが分かるんだと。なにができるんだと。
それは半分正しくて、半分間違っていたと今は思います。
確かに昔の自分が望んでいたような、物理的な支援や干渉はできない。
当時の自分以上に自分のことが分かります。昔の自分が真に必要としていたものでした。
過去を振り返って思うのは、
「子どもはなにも分からない」
「多くの子どもが分からないまま通り過ぎていく」
ということです。
この衣食住何不自由なく、誰に命を狙われることもない国で、私は死ぬ心配ばかりしていました。
過去を振り返って思うのは、子どもは何も分からないということです。
ただ通り過ぎていくだけです。ただ、そんな人たちの何かを一つでも変えることができたなら、過去の自分と同じような気持ちを味わわずに済むかも知れにない。過去の自分ができなかったことを叶えてくれるかもしれない。
去年の3月、「学生の不登校と自殺が過去一多かった」「電話相談窓口のボランティアが不足している」というニュースを偶然目にしました。
先のことを考える度、それを閉ざされてしまった人のことをどうしても思い出してしまいます。