志望動機

もくじ


2022

ことあるごとに、ある二人の子どもを思い出します。自殺した友人。不登校だった自分。

新学期、GW明け、夏休みの終わり、年末、受験シーズン・・・何年経っても思い出してしまいます。何か一つでも違えば、違う今があったかもしれない。ただ、なるべくしてなったことだと理解しています。それは歳を重ね、様々な考え方や判断基準を知り、自分で自分の状況を俯瞰できるようになったからです。

同時に、現在進行形で過去の自分たちと似た境遇にある人のことを想像します。ただ生きることに不安がある。本来子どもが考えなくていいことに悩まされている。誰に命を狙われることもないこの国で、死ぬ心配をしている。

悩みを抱えたまま、学校に行けないまま大人になる人もいるでしょう。卒業すれば消えるものでもない。同じことを繰り返し、苦境に立たされる。子ども時代を全うできたか、そうでないか。毎年ふるいにかけられる。こぼれ落ちていく。そんなイメージが拭えません。

自分と同じ思いを誰にもしてほしくない。同じ轍を踏んでほしくない。あの頃たった一言もらえていたら、何かが変わっていたかもしれない。同じように今、一つだけ変えることができれば、今後が開けていく人がたくさんいるはずです。私は過去、自分が言ってもらいたかった言葉を子どもたちに言える大人になりたいです。

ただただ誰かを支えたいという、無私の心だけで講座に参加したわけではありませんでした。自分がこうなりたいという利己的な気持ちもあるかもしれない。過去を変えられないことへの代償行為なのかもしれない。

それでも、俯いたまま通り過ぎていく人がいるなら一声かけてみたい。そう思って志願するものです。


2023

6年前、私は大切な人を亡くしました。そのとき初めて自死と自然死の違いを知りました。自殺とは文字通り「自分を殺す」ことであり、人が人を殺めた結果でした。本来であればそんなこと、できるはずがない。そうさせるだけの苦痛とは一体どれほどのものだったのか。あのとき自分はどうすればよかったのか。この6年間ずっと考えてきました。

人生とは「費やしてきた時間次第」なのだと思います。好きなこと・やりたいこと・大切だと感じることに時間を使う。その一方で「自分は死ぬべきなのか」という問いに時間を割かざるを得ない人もいる。万人に平等に与えられるはずの時間をその人はフルに使うことができない。大多数の人間には課されない、誰も答えを知らない問題に足を取られ続ける。その差がさらに自分を苦しめる。

私は自分の時間を生きられない人のために、自分の時間を使いたいです。誰もが心穏やかに、健やかに暮らしていくためにはどうすればいいのか、みなさんや相談に訪れる方と一緒に考えていきたい。そう思って志望するものです。

募集要項の「相談者の考えを改めさせようとしたり、解決策の提示によってその人の気持ちを解消しようとするものではない」という一文は相談の本質だと感じました。相談は人を変えようとするものではない。人は他人の言葉ではなく、自分の言葉で変われる。最も大切な観念である一方、徹底するのが難しいことだとも思います。