回想―春休み

春休みの終わり頃、帰省を終えたナナキが久々に足を踏み入れたシャーレはレベル6にまで悪化していた。家主、かりかの身に一体なにがあったのか。
 

レベル0: 普通の部屋。
レベル2: 一般的な「汚い部屋」。ゴミが散乱し、知人は呼べない。
レベル3: 足の踏み場がなくなる。
レベル4: カレー鍋が洗われずに長期間放置され、
      膜を張っている(「シャーレ」の語源)。友人は呼べない。
レベル8: うわごと、ひきつけ、そして死。

 
 
 

……
………
 
 
かりかは春休みを以下のように過ごしていた。
 
 ―朝4時に起床
 ―その後おばさんと2人きりで仕事
 ―帰って寝る …以後繰り返し
 
バイト先で急に欠員が出たのだ。週3回のバイトが6回になった。穴の空いたシフトを補填する為、バイト先と自室とを往復する毎日。身近な友人は皆帰省しており、帰省して地元の友達に会うことも出来ない。唯一会って話をする事が出来るのは、同じシフトのおばさんただ一人のみ。新人が決まり、仕事に慣れ、シフトに入れるようになるまでの辛抱。

冬真っ只中の2月の出来事である。一日で、一年で最も寒い時間に家を出なければいけないこの仕事。『早朝シフト募集!!』のポスターを貼りながらオーナーは言った。「春先まで決まらないかもねぇ」

予想に反して、二週間後に新人は決まった。
 
 
そのまた二週間後。同級生の同僚は新人の女の子に仕事を教えていた。が、かりかがその顔を見る事は叶わなかった。新しいシフト表にはその新人の彼女に、かりか以外の二人と同じ日に入るよう書いてあった。各々がシフトに入れる曜日の都合上仕方のない事だった。事実上の死刑宣告である。週6が週3に戻っても、おばさん以外と同じシフトに入ることは出来ないのだ。その後彼女は一月も経たない内に辞めた。
 
現実はかりかの心を少しずつ蝕んでいった。早起きしてまでこのおばさんの顔を見る為に今まで生きてきたのか。少し前までの、友人達と談笑出来る、そんなありきたりな穏やかな日常が、眩しくも懐かしかった。暖かい炬燵の中でまどろみ、楽しい夢を見ることだけが楽しみになっていた。夢を見るのがうまくなっていた。

孤独感に苛まれ、精神を破壊されたかりかの生活レベルは落ちるところまで落ちた。レベル6。人類の到達できる部屋の最高レベルに限りなく近づきかけていた。
 
 
 
 
…時間を戻そう。

更に、荒れに荒れたシャーレの台所でナナキは、怪しい段ボール箱を見た。好奇心に駆られたナナキは、その魍魎の匣の蓋を開ける。開けてしまう。そこにはファンタジーとカテゴライズされるような小説の中でしか見たことの無い風景が広がっていた。ナナキは「アッ」と短い悲鳴を上げた。
 
 
 
マンドラゴラである。
 
 
 
かつてジャガイモと呼ばれていた"それ"は、かりかの実家から送られてきたものである。祖母が育てたものである。かの部屋がシャーレと呼ばれる所以になった"最後の料理"で使用されずに残り、不幸にも段ボール箱の中で一生を終える事となった数個のジャガイモ。それらは数ヶ月もの間に身の養分を全て根に回し、どうだろうか、30cmほどもあるだろうか、おぞましい触手を何本も生やし、立派な魔界植物へとその姿を変えていた。

段ボール箱に記されたAmazonのあのマークだけが、ニヤッっと不気味に笑っていた…。